E.T.シートンについて

「シートン」ってどんな人? <1>

アーネスト・トンプソン・シートンは、イギリス出身のナチュラリスト、作家、画家です。 日本では「シートン動物記」の作家として有名ですが、実は画家でもあり、彼の本の挿絵はシートン自身が描いてます。

シートンは、1860年イギリス・サウスシールズに11人兄弟の九人目として生まれました。父親は海運業を営み、かなりの資産家でしたが、船の沈没や海賊の襲撃など、多くの不幸が重なり事業に失敗。シートンが5歳の時にカナダ・オンタリオ州リンゼイに家族で移住します。シートン一家はここで開拓者の生活をはじめるのですが、この時、幼いシートンはカナダの大自然にふれ、その後の人生の方向が決まることになります。シートンの父は、この地で4年程働きましたが、農場はうまくいかず、家族でトロントに移ります。

子供のころのシートンは、とてもわんぱくな少年で、ケンカもしますが、学業も優秀で、身体が痩せ細るほど勉強をして、よく病気にもなりました。その静養のために以前に住んでいたリンゼイの農場へ行き、そこでまた野生動物に親しむ事が出来たのです。

野生動物に親しむうち、シートンは動物学に興味を持ちます。しかし父親は、シートンが絵の才能を生かし、その方面で身をたてる事を望みました。父の勧めでオンタリオ美術学校に入学。すべての学科で一番を取り、ロンドンへ留学させてもらいます。ロンドンでは、激しい競争試験を突破してロイヤル・アカデミーに入学しますが、その暮らしは非常に苦しいものでした。父親からの送金が途絶えがちだったのです。

しかし彼はここで再び動物学者を志すきっかけとなる大きな出会いをします。イギリスで誉れ高い博物館、大英博物館です。当時19歳のシートンは、大英博物館の図書部には入館することが出来ない年齢でしたが、館長の上にいる三人の理事に手紙を書き、その熱心さが認められて例外的に許可されます。こうしてシートンは、図書室が閉館するまでアメリカの自然の本を読みあさります。そして、カナダにもどって自然に触れたくなったところで、健康を害し、故郷トロントへ戻らなければならなくなるのです。

「シートン」ってどんな人? <2>

帰郷後、体調が回復したシートンは、同じくカナダで農場を経営する兄の元で、農場の手伝いをしながら、多くの野生動物を観察して過ごします。数々の野生動物の物語はこの経験から生まれたのです。

1883年には、ニューヨークの出版社で動物の絵を描く仕事をはじめますが、大自然が恋しくなりトロントへ帰郷。1892年にも、絵の勉強をするためにパリへ行きますが、やはりほどなくトロントへ帰郷します。

ある日、33歳のシートンの元に、知人のアメリカの実業家から手紙が届きます。
「牧場の牛がオオカミに襲われて困っています。助けてください。」
このオオカミこそオオカミ王と呼ばれた「ロボ」であり、この時の話が今回の舞台の原案となっている「オオカミ王ロボ」です。

1898年に刊行した『私が知っている野生動物』はシートンにとって最初の本であり、また大ベストセラーになったもっとも有名な本です。「オオカミ王ロボ」、「ワタオウサギのラグ」、「わたしの愛犬ビンゴ」、「大草原のウマ ペイサー」などの物語はすべて実話にもとづいています。

1900年にはアメリカの子供たちに頼まれて、ミュージカル「野生動物の劇」を執筆。衣裳のデザイン画を描き、テーマ曲も作詞しています。

シートンは、野外生活を愛し、インディアンの生活を理想としました。そこで、一年の6ヶ月をアメリカの自然を旅し、残りの6ヶ月をニューヨークで仕事をしました。また、わんぱくな子供たちの指導には野外生活が一番良いと考え、ニューヨークに近いコネチカット州コス・コブに広大な森を手に入れ、子供たちの野外生活運動を支援します。この野外生活運動が、現在のボーイスカウト団の基礎となりました。

1946年 ニュー・メキシコ州サンタフェの自宅で老衰のため死去。86歳でした。

今回の舞台は、シートンが110年前に書いたミュージカル「野生動物の劇」の脚本をベースに、シートンの志が反映されるよう現代風にアレンジされています。また衣装も、当時のデザイン画を参考に、出来る限り忠実に再現しました。

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